どうして愛したのか

 

実は1回目は二階席後方ということもあってか、物語においても俯瞰視点が勝ってしまい没入できなかったのだけれど、2回目は一階席上手2列目という私史上なかなかの良席で観劇。俳優さんの表情、細かなボディランゲージ、衣装や小物に至るまでこの作品の構成物がすべて視界に入る世界で、どっぷりとJCSの世界観に浸かったのであった(ちなみにまだ手持ちがあるので、都度書き足していく)

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【序曲】

直近ジャポネスクで観てしまったから、ギターから入るイントロが懐かしく感じる。

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ジーザス登場段階では群衆に目を向けているわけではなく、自分に伸ばされる手を見て初めて視線を下に向ける。ジーザスにとっては足元にいる人たちを救うこと以上に気がかりなことがありそれは恐らく自らの死であると解釈すると、垣間見えてくる青年としてのジーザスの姿。

蠢く民衆たちを見つめるジーザスの、慈悲とも怒気とも呆然とも苦痛とも言えぬ表情に対し、そのどれとも言えるごった返しの感情を体で表現するユダとの対比。

そして佐久間さんユダ、この段階ですでに泣いてらっしゃる。それも腕で涙を拭うくらいに。

横浜のノートルダムをふと思い出す。あれは確か前楽だったはずで松山さんエスメと佐久間さんが涙ながらに歌われたsomedayがあまりに切なく美しく、この回を超える同曲をまだ私は知らない。

フィクションを毎日繰り返してもなおその表現ができるのかと思うと、ああ佐久間さんは本当に「役者の方」なんだなと思わされる。

 

 

【彼らの心は天国に】

「私は今わかるのだ」の一声からは想像もできない、「ジーザス!!!」のシャウトよ。声量や音楽のボリュームが一気に上がることもあり、一瞬目を見開くほどの迫力。

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そんなユダが「いつもあなたのそばで尽くしてきた私の真心思い出して欲しい」という言葉をかけるとき、それは責めるというよりも友人に語りかけるよう。

「天国を夢見すぎたのだ」で客席をまっすぐ見る演出が好きでいつも待ち構えてしまう。そしてこの歌を終えた後にも、overture同様に涙を拭う姿を見る。

 

 

【何が起こるのですか】

上手側で放心状態のユダを目の前にしながら、群衆のざわつきを虚ろに聞く。とにかく上手前方は全てがユダ視点だ。

何のざわめきですかとどよめく群衆には目もくれないのに、マリアが冷たい水で頬を冷やしましょうと声をかけた瞬間にユダはジーザスに目を向ける。同じく個人的な感情をジーザスに抱いているであろうマリアには彼を癒し振り向かせる方法がわかり、自分にはそれがわからない。そうした苛立ちや嫉妬心をユダから感じる。

なぜそのような女に構うのか、女のことなど忘れて欲しいとジーザスに直接語りかけた後土下座にも似た姿勢で頼み込むユダに対し、「罪のない者がいれば石を持ってこの人を打て」と冷たく言い切った後に初めてユダを見る。そしてその視線をユダは受け止める事ができない。この曲のみならず、二人の視線がかち合う時間が極端に少ない。

結末を知るからこそ、もっと会話を重ねていれば と思わざるを得ない瞬間だ。いや、重ねたとて結末は変わらないのだが、だからこそあんな別れ方は切ない。

今回一つ気づいたのが、「いや、誰一人わかってはいない」というジーザスのセリフの後、一斉に群衆がジーザスから目を背ける。そんな中ユダは自分ならわかります、なぜそのようなことを言うのですかとでも言いたげにジーザスにしっかり視線を向ける。その様子を肯定するでも否定するでもなく、静観するマリア。一瞬の演出に、物語の縮図があったな。そして神永さんがマリアを示す際に差し出す手の丁寧なことよ。

 

この曲と一つ前の曲でのユダパートには繰り返し「群衆」「彼ら」という単語が出てくるけれど、果たして本当に佐久間さんの演じるユダは群衆を想って行動しているのか、ということを疑問に思っていて、その疑問への自分なりのアンサーとして、佐久間さんユダは群衆という大義名分を出しに使って個人的な感情を満たそうとしているのだという結論に至る。

他の方の考察などを見ると全く違った解釈(ユダが群衆を気にかける様子が見えてこない!みたいな)もあるみたいだけれど、ユダはそこまで周囲を見る気の利いたタイプとは個人的に思っていないので、独りよがりに空回り死ぬ、というのがしっくりきている。

正解不正解ではなく、受け取り手によっていろんな考察があるよなと感心した出来事。

 

 

ジーザスは死すべし】

初回は佐野さん司祭だったのだけれど、まさか司祭としての歌唱がこのフレーズだけとは、、、

高井さん含め四季の中でもベテラン枠と言われる方々がこうして少しずつ次の世代にその席を譲っていく様を見るのは、寂しくもあるけれど組織としてはとても健やかだなという思いもある。といいつつカヤパは高井さん金本さん以外が出てこないね。おふたり大好きなので無問題です。

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話がそれた、「やあ皆さん」という挨拶が私たちに向けられたものだと思うと、やはりこのセリフの置き方と高井さんのお声には劇場を支配する力が宿っているなと感じる。感情は表に出さない静かなる悪ながら、この人のひと声で状況が変わるんだろうなとお察しする。

一方金本さんは分かりやすくパワハラ型。高井さんで2回拝見した後だったので、まずその堂々たる佇まいにびびるけれど、振る舞い的には小物感もあって意外に誰も後ろをついてきてなさそうな。

アンナスはワイスさん・一和さんそれぞれ。ワイスさんはこういう曲者役やらせたらなかなか右に出るものはいない、貴重なバイプレイヤー。いかにも上の言う事に異議なく従います、的な姿勢がよい。

一和さんは一応高井さんの義父にあたる関係性なわけで、いやあ年齢的には息子じゃない?ぐらいの不安はあったけれど、思いっきり老けメイク。髭も絶妙に似合っていなくて微笑ましかった。きちんと役としてみたのは春のめざめ以来かな?高音とはいえなかなか上品なお声。ワイスさんに比べると自立している印象。

個人的には真田さん司祭が好きなので、もっといろんな役でみたい(前回のブログでも言ってた)のと、中橋さん司祭が常に良い声をびんびんに響かせていて、何というか本当にカヤパ軍団大好きです。

 

 

【ホサナ】

民衆よりも特筆すべきは、上手側間近にやってきた高井さんカヤパよ。ジャポネスクかな、オーバーリアクションだった気がするんだよね。なんかこうプンプン!って感じで地団駄踏んだりなんかして。それが実に日本的で滑稽で面白みもあったんだけれど、エルサレムでは多くは語らないどっしり系カヤパ(本来はこっちな気もする)

「褒め、歌をうたうものたちに教えるのだ、愚かさを」も静かに、でも目力でしっかり侮辱しつつ、あの距離で高井さんの声を浴びられる幸福。

高井さんがこのフレーズを全て観客に向けて語りかけるので、こいつらは思考を放棄している、そう思うよな?と観客に同意(圧?)を求めているようにも見えるのに対し、金本さんは群衆と観客に視線を交互に行き来させる形で怒り、呆れを示す。この箇所一つとっても演じる俳優さんでこんなにも感じ方が異なる。

そして中橋さん司祭は紛れてこの歌を終えた後暗闇の中颯爽とはけていくのがちょっとツボだった。

 

 

【狂信者シモン】

レジェンド本城さんは今回はキャスティングなし。長年この役を務め上げているからこそ多くの観客の中に本城さんシモンの型ができてると思う。もれなく私もその一人で、久方ぶりに耳にした通常バージョン(アドリブなし)がどうしても物足りなくて、、

大森さんシモンはお兄さん肌ではあるものの全体的に淡々としているクールな印象だったので尚更そう感じてしまったかも。狂信者かと言われると、ちょっと物分かり良すぎる感じ。特にジャポのヘロデが隙間のないほどにピタッと適合していたからな。というかどの演目もそうだけれど大森さんに頼りすぎじゃない?

 

柴田さんは「呪わせてくださいローマを!」を上げるタイプでいらしたのでもしや本城さんインスパイア?声量もさることながら目に宿る熱量、しかと受け取りました。お髭も相まってなかなか濃ゆいお顔立ちからは想像に易くない、綺麗でまっすぐな歌声で、大八車からの大抜擢とは思えないほど堂々たる仕上がり。

そういや佐久間さんは群衆→シモン→ユダだよね。昨今キャスティング騒動も色々あるけれど、JCSは相当な回数を観ている猛者も多いから、いろんな視点を経てメインの役所にいくのがセオリーなのかなと思った。柴田さん、今後に期待。

 

 

ジーザスの神殿】

救いを求める人々の手を握り返すジーザス、以前は徐々にキャパオーバーに向かう焦燥感が見えたけれど、今回はとにかく疲労、諦めを感じた。神永さんの手の演技ゆえかなと思う。群衆の手を振り払う動作も力を込めてではなくふっと脱力するような。

「自分で治せ」という自分の言葉の残酷さに気づく演技も初回は明らかに「ハッ」と声に出したけれど、2回目はさり気なく、でももういいかという諦めすら感じる悲しい一声だった(でも3回目はしっかり声に出てたな)

 

 

【今宵安らかに】

江畑さんマリアとジーザスの関係性は、男女というより親子愛に近いと思う。なんというか存在的には人生経験豊富なグリザベラぽさもある。ジーザスは自分を神の子としてではなく一人の青年として無条件に受け入れる母性を求めていたんだろうなと、お二人を見ていると強く感じる。

かたや守山さんマリアは少女のような可憐さ、危うげな雰囲気がある。ジーザスに対する感情は母性なのか、一人の異性に対峙した時の感情なのか、間で揺れ動いているように見える。ラスト「愛してる」で音を上げるのもやっぱり好き。

関係性的にいうとイエスもやはり人の子なのねって感じがする江畑さんマリアの包容力がしっくり来ていたけれど、歌詞とのマッチングは後者なのかな。

 

 

【裏切り】

異様に長いイントロから始まるこの曲。呆然と、廃人のように丘を少しずつ下るユダ。ジャポは摺り足でぎこちなくゆっくりと、でも緊張感を持って道を来ていたけれど、こうしてみるとまた違った印象に見える。

曲調が変わると同時に、これから犯す罪への罪悪感に顔を歪め、一瞬来た道を戻ろうとしさえする。それでも決意を固めて前を向く姿がまさに「悩み抜いた末のことだ、それなのに心がまだ迷う」心情を体現している。

ほんで佐久間さんユダはどれだけ強い喉をお持ちで、、?傾向としてやはり日本人よりも海外のかたの方が喉は強いんだろうなと思うことは多々あるけれどさ。嫌なこと言うけどこうやって酷使されて退団、というパターンが想像に容易いくらいにはふっと消えてしまいそうな、弱々しい姿に見えてしまうんだよ佐久間さんユダは。

でもシャウトも高音も外さずに歌い切ることがこのJCSという演目をきちんとミュージカルとして成り立たせていると思うので(感情だけが先行したり、歌唱だけが良かったりしても、この演目ばかりはだめだ)やはり佐久間さんユダの存在、技術はなくせないなと。金森さんユダも相当好きだったけれど、佐久間さんを語らせたら長いんだから。

 

そういや逮捕令状を高井さんがノールックで佐野さん司祭に渡す瞬間、レジェンド怪人の夢の共演、、!ってな感じがしてオペラ座オタクの皆様方には稲妻が走ったのでは?逆に金本さんから受け取る時なんて、えっ、ノールックなんてけしからん?!なんて思っちゃったり。佐野さんの使い方があまりに贅沢すぎる。

両脇のアンナスとカヤパを交互に見て必死に抵抗するユダと、「お前の気持ちはよくわかる」と言いながらもユダには一瞥もくれず確実に銀貨を取らせる狡猾な高井さんカヤパ。金本さんは同情をしっかり示しながら「綺麗な金だっ!」と強調されていたのが印象的だった。舞台に近い席だとユダがもがく声が鮮明に聞こえてくる。

 

 

【最後の晩餐】

銀貨を持つ右手を高くあげた時には視線は地を這っているのだけれど、ジーザスの気配に気づきギョロっと目を向ける瞬間に緊張が走る。2回目の席はジーザス、ユダの延長線上に自分がいる構図で、神永さんの冷たい(熱のない、と言った方が適切かも)視線にどぎまぎしながら佐久間さんユダの悲しき背中を見ていた。ジーザスがまっすぐとユダを見据えるのに対し、ユダはその追求を受け止めることができず俯く。どこまでも一方通行なやりとりがもどかしい。

「思い出せだと私がみんなに求めているとは」の一節、そんな欲張りな自分を責めるようだったけれど、2回目は「ああ本心はこれか」とでも気づくようにさらっと歌われたのが逆に新鮮だった。

「この弟子の中の一人はここから出て見捨てるだろう」という言葉は自分がこれから犯す罪の意識に苛まれ放心状態だったユダを一瞬で殺気立たせる。この時の佐久間さんの表情の変わりようは一瞬の出来事。なんと細やかな演技をされているのか、、

「思った通りにここを出てゆくがいい、さあ」というジーザスのセリフの後、見限られたという絶望に浸りつつ右手の銀貨を一瞥したのを機に、張り詰めていた糸がぷつんと切れたように感情を高ぶらせるユダ。そんなユダに対し、上手側に駆け寄り崩れ落ちたあとにジーザスが見せるのは神の子ではなく苦悩に足掻くただの人の姿であったよ、、今までユダが視線を外すことはあれど、ジーザスがユダから目を背けるのはこのシーンだけのように思う。この1シーンに、ジーザスのユダに対する想いが詰まっているなと。

そしてユダから捲し立てられる直前にまた、さっと神の子の仮面をかぶる。

 

「その手に余ることをしなければ、こんなにならずに済んだのに、ああ」と言いながらゆっくり銀貨を持つ右手をジーザスに差し出し挑発する印象的なシーンも、2列目からの光景はより強烈である。特に3回目観劇時はセリフや歌詞という枠にとどまらない、二人から自然と発されるその応酬に、ノンフィクションを見ているようで息をするのも忘れていた。

いやあこの曲見どころがありすぎませんか?実は今までこのシーンユダに注目していて、自分を裏切り者に仕立て上げようとするジーザスへの憤りが沸々と湧き上がるのに注目していたんだけれど、座席的にジーザスの表情やお二人のやりとりがよく見えたのでまさかこんな演技されているとは。神永さんと佐久間さんの組み合わせは、くるところまで極められていて、このお二人を何度も見られることは大変光栄なことだなと。

 

 

ゲッセマネの園】

JCSは精神的にも身体的にも負荷の高いであろう演目であることは容易に想像できるけれど、殊更にこの曲は開幕当初よりも後半にかけて凄みの増す曲だと思う。現にやはり、開幕翌週回よりも2回目の方が良かった。

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神永さんのご負担を考えると申し訳なくはあるが、疲労困憊な状態で最後の力を振り絞り訴えかけるゲッセマネには、それぐらい鬼気迫るものが感じられる。私の中では前回東京公演ジャポで観た、前楽の日がベストオブゲッセマネだったんだけれど、汗とも涙ともわからない水分を多量に放出しながら歌うゲッセマネはそれと同等または超えてくるくらいの気迫があったな。この箇所ありきでは無いけれど、ロングトーンも伸びやかだった。

 

 

【逮捕】

何度も書いていることだけれど、佐久間さんは台詞の間の置き方が秀逸だよね。同役の他の方を見るとよりそう感じる(フィーバスはダントツ佐久間さんがよい)

喧嘩別れのような形ではあったものの、「奴はあそこにいます」の一言にはやはり躊躇いがあり、ジーザスに駆け寄る歩幅は狭くゆっくりで、口付けをした後にふっと顔を背けるものの、肩に置いた手に未練が感じられる。

何がいいって「ユダ見捨てるのか、お前は」と言われた後に悲しむでも怒るでもなくふっと笑うんだよ、佐久間さん。この役目を負わせたのは誰でもなくあなたではないか、とでも言いたげに、やるせない自嘲気味の笑みを浮かべる。悲しみという単純な感情にとどまらず、佐久間さんの解釈ってここまで来ているんだと鳥肌がたった。

直後、掌返しをする群衆を目の当たりにし、自分が予想している以上のことが起こっているという事態の深刻さに気付いた後のユダの悲壮感漂う背中よ。そしてそれを憐れむように、責めるように見つめる真田さん司祭の視線が印象的だった。

そういやここでやっとペテロがちゃんと登場するね。辻さん前回の公演はまらなかったんだけど、今回は安定感が格段にアップして、声質も相まって心地よい。

 

 

ヘロデ王

北澤さんは欲しいものは全て手に入れる人生に飽きた、おぼっちゃまヘロデ。「どうせあなたも私の退屈凌ぎにはならないんでしょう?」ってな低体温具合。そのくせジーザスが期待にそぐわないとわかるとブチギレるのだから、そりゃガールズも困惑するわ。

劉さんはギャルだな。「プールの上歩けんの?見せてみ〜」と好奇心旺盛に茶化しているようにも見えるし、随所で癖強なアドリブがあって見ていて楽しかった。それにしてもけしからんスリットの深さ。劉さんヘロデはスリットだいぶ前にやってらして、でも絶妙に下品じゃないのがまたすごいよ笑。

 

 

【ユダの自殺】

せめぎ合い逡巡する「裏切り」とは打って変わって短い前奏が印象的。感情的になっていることがよくわかる表現方法だなと、改めてALW氏の音楽の凄さを感じる。

金本さんカヤパは「お前は救ったイスラエルを」のくだりから敢えてユダをしっかり指差すのが、お前がやったことだと突きつけるようでなんとも意地の悪いカヤパ様だ。

佐久間さんユダ、「できる事ならば彼を苦しめたくない、救いたいのだ」のフレーズ後に背後にいるカヤパたちに最後の同情を求めたあと、「クライストあなたが望む事ならばなんでもするだろう」で振り返るまでになぜあの量の涙を溜められるのか、、そして感情を乗せつつも安定したクオリティで聴かせてくれる佐久間さんユダのこのナンバーが大好きだ、、今後こう言う俳優さんが出てくるのか心配だ。舞台に近い席ではスピーカーを通さず生声でその魂の叫びを聞いた。大義名分を押し通すことで彼を思いとどまらせる、ひいては振り向かせようとしたが、行き着くところはやはりジーザスへの個人的な愛だと思う。そしてJCSで描かれるジーザスは大義名分なんかよりも自分を真に理解してくれる人を求めていたのだから、ユダのやり方が違ったらすれ違わずにいられたんじゃないかなんて思ってしまう。

「あなたが死んでも生きていられるか」という自問自答で見せる、諦めの微笑が胸を締め付ける。今の佐久間さん、そして神永さんの組み合わせ以上に演じられる人いないだろうなと思わせるだけの説得力がある。

今期2回目以降で感じたことだったんだけど、マイゴッド!!の叫びがゲッセマネでのシャウトと同じ音(ファ#)だったんだよね。毎回同じ音だからまさにジーザスの苦悩する姿と重ねるという狙いがあるのだと感じた。

 

 

【ピラトの裁判〜鞭打ち】

よく考えたら鞭打ちの前にユダは最後を迎えるのだね。歌詞の中に「何度も鞭打たれたのだ」とあったから前後がわからなくなってしまった。

一階席で見ると、かなりのスピードでジーザスが舞台中を連れ回されているのがわかる。そして神永さんにあたってもおかしくない距離感で鞭打ちされている(一度ふくらはぎに当たった様子で、何やら足をそわそわと動かしていた神永さんに遭遇し同情した)

田島さんピラトはとにかくジーザスを憐んでいて救おうとしているように見える。ご年齢的な要素もあってか父性を感じるし、今後この選択をしたことを後悔しそうなピラトだった。一方山田さんピラトはカヤパや群衆の圧力に屈してしまったタイプのようで、偏見で申し訳ないけれど「あれはそうするしかなかったんだ」とか開き直りそう。ピラトはあまり見比べた記憶がなかったので、短期間でお二人を見られたこともありキャラクターの違いがよくわかった。今まで山田さんよりの解釈だったけれど、田島さん的なピラトもあるんだな、どちらも納得した。

 

そしてそんなピラトを唆すように、さあさ躊躇わずにやっちゃってくださいなと言わんばかりに手を差し出す金本さんカヤパはやっぱり残酷だし、一歩ずつ確実に追い込む高井さんカヤパやワイスさんアンナスに凄まれて萎縮する姿には同情してしまうよ。

 

 

【スーパースター】

佐久間さんユダ、前奏部で照明が当たる前に、ジーザスを見てうっすら笑みを浮かべ大きく首を振ることに今更気づいた。結局この結末かよ、とでも言いたげに。悲しく乾いた笑みが切なかった。

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以前の佐久間さんユダのこの曲における印象が若い、はつらつとした、手放しなと表現するのならば、今期のスパスタではその楽しげな姿の裏に諦め、呆れ、同情、自嘲、、そんな感情が一緒くたになった「哀愁」が感じられ色気を纏ったスパスタになったなと。体でリズムを取る動きも、ノリノリってよりは疼きに耐える様子に見えたり。

佐久間さんのアドリブ大好物なもんで(ジーザああああス!!!)目の前で聞けて感無量だ、、

 

エルサレムではあの救われる(?)カテコも未だ健在だけれど、皆を率いながらもまだ目に生気が戻らない佐久間さんユダ。そりゃ抜けきらんよな、こんだけユダと長いこと向き合ってきたら。丁寧なお辞儀に、いやいや首を垂れるべきはこんなに良いものを見せてもらった観客側じゃないのか?!とまで思う。掌が真っ赤になるほどの(十字架後のジーザスぐらい)、最大限の拍手で敬意を示す。

カテコ3回目くらいでやっと表情の強張りが解け、はにかんでからのお手振りタイム。多分ここまで来てやっと、観客も救われてる。とにかく佐久間さんの笑顔が戻るのが早ければ早いほど安心する(案外?神永さんは最後まで崩さないよね)

カテコといえばとにかくおじさま達がはしゃいでいて、袖に捌ける時によーいどんやり始めたりジーザスを囲む時も押すなよ〜ってな感じでとにかく愉快(佐久間さんがそれを見て苦笑しているところまでがセット)高井さんお辞儀後はろくに客席も見ずに後ろ手で手を振られているの、かわいいよね。

 

 

ここまでで何度か触れていることだけれど少し前のJCSを表す言葉が「情熱」なら、今期のJCSは「諦観」だなと。勿論内なる熱量はあるんだけれど、そのフェーズを超えてまさに″度を過ごしすぎた″状況への諦め、疲労感。民衆と、プリンシパルの方々の熱量(勿論舞台に対するではなく、立場上のという意で)には明確に差がある。

新しいキャスティングもあり、再解釈、再構築を経て今期この形になってるんだろうなと感じるし、現に今まで何度も見てきたプリンシパルの方々の演技がガラッと変わっていたりする。否、もはや演じるのではなく憑依してるんだな。

 

そう考えるとやはり今までこの作品に携わっていなかった今期キャスティングの俳優さん方がその領域に追いつくのはやっぱり容易なことではないよな〜観客側もこの作品の歴史と共にある人が多いだろうから受け入れること自体も時間がかかる。

オールマイティに歌える方も、彗星の如く現れた方も、他の作品では輝いていたとてミュージカルは適材適所だなと。実際この俳優さん好きだけど、この役はまらんな〜という方何人かいらっしゃるし。

 

 

まあぼやきはともかく相も変わらず特定の俳優さん贔屓な記録だけれど、何が言いたいかというと今のJCSのキャストにおいて神永さんと佐久間さんの存在はあまりに大きいから(劇団全体で考えてもやはり大変貴重な俳優さんだなと)最大限の拍手で気持ちを示したいし、実質シングルキャスト状態の今、きちんと劇団もケアしてあげて欲しいと切に願う。

歳を重ねて役の幅を広げるお二人をこれからも観たいのよ〜

 

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3/16ソワレ ※私の手持ちではないので週間キャストより拝借

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実はこのブログを書いた後に新ジーザスも拝見したので触れておく。

神永さんがこの役を10年以上?やられていて、私自身もこの作品の大半を神永さんで拝見しているので偏りなくというのも難しいのだけれど。

現時点の印象は抑揚の少ないジーザスだなと。演技もお歌も。2階席2列目だったので、まあ事細かに見られていない箇所も多いだろうし、やはり1階席に比較すると俯瞰視点ではあるからなあ、正常に判断できているかは微妙。

ただ佐久間さんユダが開幕から皆勤賞でいて、かつ楽週で周囲も一段とギア上げているのもあると思うんだけれど、ユダが苦悩していく様は佐久間さんの演技から痛いほどわかるのに、なぜユダが裏切り死を選ぶに至るかの過程(劇中では直接的には語られないジーザスとの関係性の部分)がうまく読み取れず、率直な感想でいうと同じ舞台にいるのに加藤さんと佐久間さんがそれぞれ別で演技をされているみたいだったんだよな、、

何か事情があるのかもしれないし、私はその週2日目だったからかもしれないけれど、今期キャスティングの俳優さんだからこそ楽週でキャス変するぐらいならその前の週からペアにしておくか、もしくは神永さんで終わりにしてほしかった。

 

抑揚がないというのには大きく二つあって、一つは単純にここもうちょっと力込めていいなとか、逆にもうちょっと控えめにいって欲しいなというちまちまとした部分。好みと言われてしまえばそれまでなんだけれど。

シャウトも優しめと感じたのでせめてゲッセマネだけでももっと熱量が欲しかったな〜と欲張ってしまった。多分真面目で品のある方なんだろうな。フィーバスで拝見した時も女遊びするタイプじゃあないよな〜と思ってしまったので。

 

もう一つが「普通の青年」の側面というか方向性が、私がこれまでしていた解釈と違うのかも(ご本人がどこに重きを置いているかはわからないし、解釈が一致している人にはきっと刺さるんだろう)。

群衆がなぜ救いを求めて手を伸ばすのか、なぜ担がれ囃されるのか、演技の中で常に疑問符が浮かんでいるようには見て取れた。が、疑問に思うにとどまってしまうと自身、ユダ、群衆の行動の意味が私にはうまく見出せなくなる。

これは個人的な考察ではあるんだけれど、ジーザスは自分自身やユダにとっての「普通の青年」なのであって、エルサレムの群衆たちにおいてはやはり「神の子」であったのだと解釈している。だからジーザスは神の子としての役割、宿命を抗うほかない御旨として引き受けつつも、身の丈に合わない(と自分では感じている)役回りに苦悩していくのであるし、一方でそういった弱さに気づき、彼もまた群衆と同じ普通の人間なのだから、その苦悩から友を救いたいというユダの行動に説得力があるんじゃないかな。

先日拝見した時点での加藤さんジーザスは普通でもなければ神の子でも無い中庸な存在に思いつつ、ともするとなぜ群衆が彼を崇めたかの意味やユダが救おうとする動機付けが薄まってしまうようにも感じた。少なくとも神の子としての存在感は薄いんだけれど、仮に「普通の青年」よりなのであれば神からの啓示に足掻き、民衆たちを携える事に抵抗する人であってもおかしくないかなと思うもののそういう葛藤も今の段階では感じられなかったから、もしかしてすっごい手前の段階(なぜ私?って思いつつも引き受ける)にいるのかなって。普通の青年であってでもそうではない、あの特別な存在感はなんなんだろうね。

やってみろよと言われたらそりゃあできないし、加藤さんご自身も神永さんの後任というプレッシャーは計り知れないほどにお感じかとは思うので厚かましいのも承知なんだけれど、どこかに残しておきたかった今今の加藤さんジーザス。

現状はとにかく譜面通りに丁寧に演じ、歌うということを意識されているようにも思えたので、これから次世代ジーザスとなれるといいな。

 

 

そのほか細々としたこと。

 

・1階席間近で見るといかに舞台の傾斜がきついかよくわかる。ジーザスが坂の上から押し出された時、そのままつんのめって客席に落ちてくるかとヒヤッとしたり。

ジーザス含む上裸になる役の方々って、がっつり腹筋のシャドーいれてるのね?!ジーザスは控えめに縦線だったけれど、兵士の方々シックスパックは欲張りじゃない?

・加藤さんジーザスが心配になるくらいカリカリだった。十字架本当に運べる?ってな具合に。役作りとプレッシャー、どちらもおありだろうな

・スパスタ衣装、脚の無意味なチャックはなんぞやなどと考える。無くなった体をまた継ぎ接ぎした存在ってこと?深く考えすぎでただのデザインの範疇を出なかったりしてね。

・十字架にかけられた後、神永さんが微動だにしなくて驚く。いつもは大体二階席から見ていたので気づかなかっただけかと思いきや、間近で見たってそうではなかった。

そしてその後のマリアの凛とした美しい背中に気づき鳥肌がたった。

・カテコでマリアにエスコートされてるジーザス見て最初は逆じゃね?!って思ったけれど、関係性的に言ったら多分正解なんだねあれ。